パインアップルと僕と彼女
フィリップ・モリスについて
philip‐morrisはすぐに色んなことを忘れてしまう。
それは例えば、昨夜見た夢の内容だったり、初恋の人の下の名前だったり、二人の思い出の場所だったり、ゴミを出す曜日だったり、しまいには僕の誕生日だったりする。
だから、八月と九月をまたぐ寒い日に、僕が突然体調をくずしたときも、何食わぬ声で電話をしてきて、バナナみたいに長いフル装填のマガジンを差し込んだマシンガンを撃ち放つように、延々と喋り散らしたのだった。
2007年8月15日
「昨日夢を見たの……いや、もちろんどんな夢だったか覚えちゃいないんだけどさ、確か象が出てきたのよ。うん、それもたくさんの象。土煙とかあげちゃってさ、大群よ大群。しかもどんな色してたと思う?赤やら青やらピンクやら黄色やら……まるでパッチワークなの。縫い目だらけでさ。そんなのが大群できたからには、あたし、日曜深夜のカラーバックを画面に光らせた100インチのテレビが積み重なって並んでるのを、ショーウインドウで眺める幼女みたいな気持ちになったものよ」
僕はもちろん穴だらけになった。
「パッチワークの象といえばこの前買ってたポストカードがそんな絵柄だったね」
philipが少し無言になると、携帯電話は調子が狂ったように雑音を立てた。
「そういうのよく覚えてるよね、そうかぁ、そのせいかなぁ。あれ、あのポストカード、どこしまったのかな。まあ必要なとき見つかればいいんだけど、あ、今さ鳥取なんだけどおもしろいポストカードが売っていて、ついまた買っちゃったの。砂丘の砂が貼り付けてあってさ、砂で鳥の絵が描いてあるの。鳥って言ってもコンドルなんだけどさ、また意味分かんねぇって思って。何でコンドルなんだろうって。ナスカの地上絵のほうがよっぽどいいセンスだよ、ほんと」
脇にさしていた体温計が鳴って、表示は三十八・七度だった。日本の真裏で地上絵を描いた古代人だか宇宙人だかも、浮かばれないなと僕は思った。
「え、ていうか鳥取にいるの?」
「いや鳥取とコンドルは関係ないよ」
「でも夜の砂丘って不思議ね。らくだが群れをなして、足を折りたたんで眠ってるみたい」
「知ってるよ」
僕が時計を見ると、夜0時に針が重なる十分前だった。神奈川県と鳥取砂丘が同じ時間なんて、あまりにもリアルではなかった。
「熱があるんだ」
「熱?あ、大丈夫?電話してごめんね」
「ううん」
「じゃあビンに詰めて砂持って帰るからね」
「何で」
「夜の砂はすごく冷たいんだよ」
夏の海で焼かれた、浜辺の砂の感触を僕は思い出した。固い足の裏の皮膚も通り越して、肉の内側まで突き刺さるようなあの砂の感触を。
「ありがとう」
「いえいえどういたしまして」
多分、僕はそれでも少し嬉しかったのだと思う。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、manhattan‐indian」
ほとんど同じタイミングを見計らって電話を切る。先に切られてしまうと、あのブツリという音を聞く羽目になる。せっかく飛び越えていた場所と時間ってものを、見知らぬ外科医に大事な神経を簡単に切ってしまわれるようには、壊されたくないのだ。
philipはいつもどこかを飛び回っている。
それには目的がある時もあれば、無い時もあった。僕の場合を言えば、目的のためにどこかへ旅立っても、途中でそれがすりかわることの方が多い。例えば湘南に海を見に行ったとして、気付いたら江ノ島の参道をうろうろしている野良猫の寝顔を写真に撮って歩いていた、という具合に。旅ってものは本来そういうものだとは思うけれど、philipの場合は本当にきっかけもなくふらりと消えてしまうことがある。
ただ、僕も一度だけ何も考えずに旅に出たことがある。そして、そんな風にふらりと消えた者同士だからこそ、突然巡り会ったりもするのだ。
それには意味があるのかなんて、そんなことは分からない。でも大事なのは僕とphilipが出会ったということだと思うのだ。
2006年3月27日
箱根の山道を強羅まで登ると、辺りにはうって変わって霧が立ちこめ始めた。冬が置き忘れていった空気で体を震わす、雑木林の深いため息みたいだった。オートマティックのギアはローで固くかみ合って、たくましく車道を登っていく。僕は時代遅れのカセットテープから響く、creamのWhite Roomを一緒に口ずさみながら、フロントガラスを襲う結露の群れをタオルでふき取った。
仕事の最中に、何だか全てが馬鹿らしくなって(上司の汚い前歯や同僚のつまらない冗談、グラフに積み重なっていく¥マークの付いた数字の他全てにおいて、だ)、『午後から有給休暇いただきます』と言い残して、気付いたらこんな所を走っていた。
「イン・ザ・ホワイトルーム!」
叫んでも白い霧は晴れそうになかった。前方はどんどん見えなくなっていくし、ヘッドライトが霧の隙間に『スリップ注意!』の標識を映しだす度に、ハンドルを握る手の平に汗がわき出した。
結露を防ぐために暖房をきったはいいが、外の冷気が足元からも横からも上からも忍び込んできて、体温を奪っていった。厚着をしていなかったので、恐ろしく寒くなって、体を縮めながらいつブレーキとアクセルを踏み間違えるか、そればかり考えて車を走らせた。
その時、わき道に立っていた看板に『温泉』の二文字が見えて、僕は急ブレーキを踏むとギアをRに変えて、それこそ本能のままにわき道に飛び込んだ。
朽ちた木の塀に囲われた細い砂利道をまっすぐ行くと、大きな建物が霧の中にそびえていた。
日本家屋に西洋の窓をつけてみて、曲線ばかりの骨組みを組み立てたような明治時代の温泉旅館だった。くすんだ赤い屋根と、まっ白いつるつるした壁は、経てきた年月のせいで巨大で厳かな老人のようなたたずまいだった。
車を降りると、しめやかな山中の空気が、じかに僕の肌を濡らしていった。僕は自分の体をさすり、微かな硫黄の匂いを鼻に吸い込みながら、足早に旅館の中へ入った。
濃い赤の絨毯のがらんとしたロビーは、受付にタキシードを着た初老の男が立っているのみで、静かなものだった。どこからかジャズめいた曲が響いていて、それがいっそうその静けさを際立たせていた。
「いらっしゃいませ」
「とにかく寒いんだ」
僕が奥歯を鳴らしていると初老の男(もうこの際ショロウと呼ぼう)はうなずいて、背後の壁に並んでかかっているたくさんの鍵の中から適当なものを掴んで言った。
「ご宿泊でございますか?」
「とりあえず温泉につかりたいんだ」
僕が首を横に振ると、ショロウは取りかけた鍵を乱暴に壁に戻した。
「その左手の渡り廊下をまっすぐいって」ショロウはそれだけ言って、奥に引っ込んでしまった。日帰り客と泊まり客でそれぞれ応対を変えるのは、さぞかし疲れるだろうなと思った。温泉旅館の歴史ある外観と、その中に勤める人間の物腰は、必ずしも比例するとは限らないもの。という人生の教訓を、僕はこの時に学んだ。
ししおどしのあるいわゆる日本庭園の中庭を、まっすぐまたぐように渡り廊下はこしらえてあった。窓ガラスから見ると、霧雨が降っていた。うなだれていく草木の生えた中庭を、抱きしめるように旅館はコの字を描いて、ただひっそりとしている。
きしむ床をスリッパで歩きながら何枚かの引き戸をくぐると、小さな待合室があって、腰の低い籐の長椅子の上に、湯あがりの少女がぽつんと座っていた。
少女は頬を赤くして、裸足を窓と床の木目の隙間に押し当て、ひゅうひゅうと冷たい風が吹き込むのを心地よさそうに感じていた。
右手には、男湯と女湯の入り口がある程度の距離を保って並んでいる。
「こんにちは」
少女が僕に気付いて会釈をしてきたので、頭を下げた。
「どうも」
「泊まっている人ですか?」
「今着いたばかりなんで。日帰りでもここの湯は入れるのかな?」
「ここと、もうすこしまっすぐいった突き当たりの湯にも入れますよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
スーツのジャケットとパンツをハンガーにかけ、シャツと下着をたたんでかごへ入れる。
何だってこんな格好で箱根の温泉宿になどいるのだろう。さっきの少女だって、突っ込みはしなかったが疑問には思ったはずだ。
うっすらと黄味がかった湯につかると、疲れが毛穴からどっと湧き出して流れていった。
浴場には僕以外誰も入っていなくて、新鮮な湯気と硫黄臭がまっ白にたち込めていた。冷えた体に貼りつくように、熱気は僕を包んでいった。
「ああ」と声を出してみる。
声は反響して、あふれた湯の流れと一緒に排水溝に飲み込まれていく。それを聞いていると、僕も一緒にどこかへ吸い込まれていきそうだった。
巨大な旅館の裏には、丸太を積んだだけといったような素朴な小屋があった。霧雨の中でも沈み込まないような真新しさだった。旅館とは違って、ここ数年に建ったばかりなのだろうその小屋は、煙突から細いグレーの煙を立ち上らせている。
僕はフロントから借りてきた(正確には勝手に拝借してきた)ビニール傘を折りたたんで、店内に入った。
「あ」カウンターでグラスを拭いていた髭の男が、僕を見るなりそんな声を出した。
「あれ、まだやってませんか?」
壁の鳩時計を見ると、十七時ちょっと前だった。仕込みの時間だったかもしれない。
「ちょっと待ってくださいね」髭の男はキッチンの中へ消えていった。
「もう大丈夫?」「いいよいいよ」「ほんとに?」「ああ」「分かった」
キッチンの中に手をあげたまま、髭の男が戻ってきた。
「大丈夫です。どうぞ、かけてください」
「すみませんね」
四人がけの丸いテーブルについて、天丼を注文する。そして高い天井を見つめる。三角形の屋根の裏側には、はりが何重にも渡してあって、真ん中には大きなシーリングファンが回っていた。
髭の男(この際、ヒゲでいいだろう)はまたグラスを拭き始める。
キッチンの中では、油の中で揚がっていく天ぷらの音が小気味よく響いている。ホールとキッチンの間にかかっているのれんの隙間から、よく着こなされた作業着を着た小さな男が見えた。
顔までは見えないのだけれど、ガスコンロがやっと見えるくらいの背の高さで、素早く左右にフットワークしながら調理を続けている。僕はきっと彼は小人のホビット族か何かなのだと思うことにした。指輪を火口に投げ捨てる旅の途中で、僕の天丼を作る羽目になっているだけかもしれない。
僕がそんなことを考えていると、入り口のドアにぶらさがっているベルが鳴って、客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「もう大丈夫?」
振り向くと、さっきの少女だった。
「今日も天そばですか?」
「うん」
ヒゲがキッチンにオーダーを通すと、ホビットが「あいよ」と叫ぶ。ヒゲはライムのかけらが浮かんだ水を少女のテーブルに置く。そして僕にまだお冷を出していないことに気付き、慌てて持ち寄ってくる。
「申し訳ない」
ヒゲの笑顔と謝罪の言葉に僕自身が許されたような気になった。ショロウとのやり取りで得たさっきの教訓を、こうしてまた僕は口の中で噛み砕くことになるわけだ。
左向かいの壁際のテーブルに腰かけた少女は、霧雨の中を走ってきたようだった。セミロングの髪を艶っぽく黒光りさせて、窓の外を見つめながらかすかに肩で息をしていた。背が低く黒目がちな童顔なこともあってか、容姿や話し方にはまだ幼さが残るのに、横顔だけはやけに大人びていた。
煙草を吸おうとした僕はその手を止めて、しばらく少女を眺めることにした。残り三本の煙草は、食後までとっておくのだ。
「持っていってくれ!」ホビットが叫ぶと、ヒゲはまた慌てて出来た料理を取りに行き、僕の前に並べた。甘いたれがご飯にまでしみこんでいる天丼と、湯気のたったアサリの味噌汁。
「ごゆっくりどうぞ」
「いただきます」
少女は一体いくつなんだろう。もしかしたら、少女なんて呼んでいい年齢ではないかもしれない。二十五の僕より上なんてことはないと思うが、考えれば考えるほど分からなくなった。だから、頭を使うのをやめて、目の前の暖かい食事にありつくことにした。
すぐに少女のもとにも天そばが届いた。
がらんとした小屋の中に響いている空調の音。はしが食器と触れる音。味噌汁をすする音。水の中の氷が揺れる音。手鍋を洗う音。木の床を革靴が歩く音。てんぷらの衣を噛みしめる音。そして霧雨が降りしきる音。そのすべてが、完成された一つの音楽のように、無言の僕らの中で打ち鳴らされていた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「本当においしかったです」
「それは何よりです。千円になります」
千五百円を出しても食べたいと思える味だった。財布から出てきたのは昔の千円札だった。多くの人の手を渡ってきたのだろう、夏目漱石の顔はしわくちゃになっていて、ひどく険しい顔で「我輩は猫である」と言い出しそうだった。
僕が店の外に出て傘を開くと、背後でベルが鳴って、少女が出てきた。
「さっきはありがとう。一緒に入る?」
「雨に濡れるのが好きなんだ。だから気にしないで」
少女はさっさと行ってしまった。僕は追いついて、歩きながら二人の間に傘を広げ続けた。
「きっと湯冷めするよ」
「……ありがとう」少女は別にいいのにといった顔をしていたが、僕は気にしなかった。雨の中濡れながら歩く女の後ろで傘を開いて歩くなんて、よっぽど悔しいではないか。
「いつから泊まっているの?」
「三日前。さっきチェックアウトしたんだけど……でももう少しいようかと思ってて」
「一人で旅行か何か?」
「ううん。大学のゼミの帰りに、気づけば旅館に泊まって温泉に入ってたって感じかな」
「何だそれ」
「あなたは?」
「うーん、仕事が面倒になって車走らせてたら箱根にいて、寒かったから温泉が見えて思わず入ったって感じだな」
「ほとんど変わらないじゃない」
「僕の方がもう少し具体性があっただろ」
「そう?じゃあ、あなたはこれから帰るの?」
「いや、あそこの飯が美味かったから、一泊しようかと思ってる」
「あそこおいしいよね」
「うん。びっくりした。まぁホビットがちゃんと見れなくて残念だったけど」
「何、ホビットって」
「料理を作ってた人」
「ガイコクジンだったの?」
「知らないよ。ただ背が低かったから、そう呼んでるだけ」
「あなた変な人ね」
「君に言われたくないな」
本館のロビーに戻り、傘の水滴をはらっていると、僕は左半身、少女は右半身がびっしょり濡れていた。僕も少女もそれを指差して笑った。
「ちょうど一人分濡れた計算だな」
「ほら、意味ないじゃない」
ショロウに泊まると伝えると、急にほころんだ顔になって、丁寧に部屋に案内された。荷物を抱えてもらって、エレベーターを押さえてもらう。角部屋の八畳間を選んでもらって、熱いお茶をいれてもらう。和菓子を食べようと手を伸ばしたところで、おかしなことに気がついた。
「何でいるの?」
「だって一緒に案内されたから」
少女はもう饅頭を半分食べ終わっていた。
「ごゆっくりどうぞ」
ショロウは言い残して、ふすまを音も立てずに閉めて去っていった。僕も少女も少しの間をおいて、いっせいに吹き出した。
2006年3月28日
眠る前にもう一度温泉につかって、少女はコーヒー牛乳を、僕はビールを飲んだ。旅館に泊まった時に意味もなくつけるTVは、何だかいつもより素直に楽しめた。
明るすぎない照明と、雨上がりの草木がささやく音は、湯上りで浴衣姿の僕と少女をすぐにまどろませた。
「寝ようか」
ショロウが先ほど敷きに来たそれぞれの布団にもぐりこんで、TVと電気を消すと今度は逆に落ち着かなかった。生物学的にはやはり僕も雄なわけだから、舞台がここまで揃ってしまうと、少女の唇の感触だとか、胸の大きさだとか、内股の温度とかが気になり始めてくるのだった。
「パインアップル」
「え?」
僕が妄想の渦の中に飲み込まれそうになっていると、少女はそんなこと知る由もなく、突然言い出した。
「しりとりしよう。次は『ル』ね」
「ル……?ルビィ」
「イルカ」
「カキアゲ」
「ゲームセンター」
「タコヤキ」
「気分屋」
「何だよ『きぶんや』って」
「あなたこそ食べ物ばっかりじゃない」
「や?……やきそば」
「化けネコ」
「焦げごはん」
「もう!何であえて終わらせるの?続くまでやることが大事じゃない」
「ごめん。普通に間違えたんだ」
「コンビーフ」
「フジヤマ」
「マンゴー」
「ゴーヤチャンプルー」
「ルービックキューブ」
「豚しゃぶ」
「ブチサンショウウオ」
「……そんなのほんとうにいるの?」
しりとりを続ける限り、夜は永遠に続きそうだった。僕らが望む望まないを関係なく、月は太陽との交代のシフトをうやむやにしてしまうだろう。そんな気になった。
「ねえ、何でしりとりをパインアップルから始めたの?」
「今日の朝、旅館の売店で売ってたの」
「三月なのに?」
「あ、違くて。缶詰に入ったパインアップルの絵が描いてあるポストカード」
「箱根なのに?」
「そう。意味分からないでしょ?大量に売れ残ってたんだけど、それが面白いんだ」
「面白い?」
「消費期限が書いてあって、それが全部違う日なの」
「期限が切れると使えなくなるのかな?」
「ポストカードなのに?」
「ちょっと面白いね」
「だから全部買ってみた」
「全部買ったのかよ」
「だって日付が違うんだし。過去も未来も全部一緒になってるからさ」
「明日見せてよ」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
時計を見ると、午前三時を回っていた。時間を確認すると、強烈な睡魔が僕を襲った。
頭の中が膨張したり、収縮したり。まるで歯のない年経たバクが、僕の頭をくわえ込んで噛みしめているようだ。
あぐあぐ。
「もしかしたら、僕は君が好きかもしれない」
バクはもうすぐ僕を、森の奥深くの沼の底に連れ込もうとしている。
「なに言ってるの」
ずるずる。
朝食はご飯と味付け海苔と焼き鮭と豆腐の味噌汁だった。旅館の朝食なんて相場は決まっている。ホビットだったら、もっと気の利いたものを作るかもしれない。
ロビーでチェックアウトの手続きを待っていると、少女が置いてあった紙ナプキンになにやらボールペンで書き出した。
philip‐morris@xxxxx.co.jp
どうやらメールアドレスだった。僕が携帯を取り出して登録しようとすると、少女はそれを手でさえぎり、僕に新しい紙ナプキンとボールペンを握らせた。昨日喋りすぎたせいか、二人して今日は朝から無口だった。
「登録なんてしなくていい」僕は仕方なしにアドレスを書き出した。
manhattan‐indian@xxxxx.co.jp
「電話番号は?」
「電話で話すことなんてきっと何もないでしょ」
ショロウが丁寧に僕らを見送ってくれた。この旅館には本当にショロウとヒゲとホビットと僕らしかいなかったんじゃないか、という気がした。
霧は昨日と同じように、同じ形にたちこめている。でも、息を吸うとまだ生まれたばかりといった爽やかさがあった。
少女は箱根駅まで行くと言うので、駅まで車で送ることになった。
車はエンジン音と共に、誰も通った気配のない道を、霧を裂きながら進んでいく。バックミラーの中の旅館が、霧の中へと吸い込まれるように見えなくなると、何だか全ては誰かのついた嘘のようなものだったんじゃないかと思えた。
セカンドとローギアを使いながら、蛇のようにうねった山道を下っていく。通りすぎる対向車は朝九時なのにヘッドライトをこうこうと照らしている。少女はウインドウを開けて、少しずつ近くなっていく山の隙間に見える街並みを見つめていた。
僕らは無言のまま、箱根駅へとたどり着いた。霧はなかったことのように消え去っていて、太陽が空高く光り輝いていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「バイバイ」
少女はリュックサックを揺らしながら、駅の方へ走っていった。
アドレスの意味を聞くこともなく、僕らは別れてしまった。philip‐morrisはマールボロ等の煙草メーカーだけれど、なぜそんなアドレスにしたのだろう?昔吸ってた煙草なのか、彼氏が吸ってる煙草なのか。聞こうかと思ったけれどきっと少女は笑って「語感」とか言いそうだったので、やめた。
空のようにはすっきりしない気持ちで、高速道路を時速140キロで走りぬけ、僕は帰途へとついた。
2006年3月29日
「体調は治ったのか?」
「大丈夫?」
一昨日仕事中に僕が突然帰ったことで、職場の皆はひどく心配をしていてくれたようだった。もちろん、帰ったことすら知らなかった人間も複数いるのだけれど、僕はそれでも十分に申し訳ない気持ちになった。
「しばらく休んだ方がいいのか?どうなんだ?」
「いえ、大丈夫です。頑張ります」
所長に呼び出され、そうは答えたものの、僕の中には一晩寝ただけではぬぐいきれない奇妙な感情のしこりがあった。二日間の出来事は全て夢なのだ。自分へそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、僕はうまくこの現実に帰ってきていないことを実感させられた。ただそれでも仕事は積まれていき、僕はそれを一つ一つさばき、心がどこかへ行ってしまっていても、終業の時間は訪れ、また僕は車のキーを回し、混み始めた幹線道路で明滅するたくさんのテールランプを見つめながら、家路をたどるのだった。
これが僕と少女の最初の出会いであって、別れでもあった。
それからしばらくは、お互いに連絡など取らなかった。唯一の手がかりはあのメールアドレスだけだったけれど、少女からメールが届かない以上、こちらからメールするのはためらわれた。
僕はきっと連絡を取りたかったのだと思う。ただ、箱根に行ったことも、天丼を食べたことも、ショロウとヒゲとホビットがいたことも、少女と出会ったことも、メールアドレスを交換したことも、全て夢かまぼろしの中の出来事のように思えるのだった。そのまぼろしの中へ、もしメールを一つ送ってしまおうものなら、きっと僕はもうこちらの世界へ帰って来れなくなってしまうんじゃないかと、不安になった。それが、僕がメールを送れなかった大きな理由だと思う。
ところが、数ヵ月後に僕は『ただ気付いていなかっただけ』ということを思い知らされる羽目になるのだった。
2007年7月1日
過去にあった出来事の何もかもを無かったことにするように、仕事は忙しくなっていった。そのおかげで僕は現実にとどまり続けることが出来て、少女のことなんてすっかり忘れていた。¥グラフはエクセル表の上のラインを果てしなく押し上げ、PCから紙に出力するたびに縮小をかけなければ、三枚以上にも渡ってグラフ表が印刷されることになった。
職場の飲み会で皆がへべれけになって、床に酒をこぼしたり、可愛くて若い女の新入社員に群がったり、障子の紙を破ったりしている時に、僕は昔世話になった課長と隅のほうでちびちびと梅酒ロックを飲んでいた。
「うまくやってるみたいだな」
「まあまあですね」
「うむ。どんな時もまあまあだと思うことが大事だと思うよ」
「そんなもんですかね」
「自分がもっとできると思わなくなったときに、全て終わってしまうもんだ」
「なるほど。あ、そうだ、課長に見せたい企画書があるんですよ」
「なに?」
「ええと、どこしまったかな」
たくさんの書類が詰まったバッグをかき回して、半年間練りに練った企画書を探していると一枚のはがきが見つかった。こんな物をいれた記憶がなかった。僕はそれを何の気もなしに取り出してまじまじと見てみると、それは輪切りにされたパインアップルが缶詰の前に立てかけてあって、消費期限の書いてあるポストカードだった。
「それが企画書?」課長はメガネをかけなおし、それを奪おうとしたので、僕は慌てて立ち上がった。
「ちょっと、お先に失礼します!」
「お、おい」
課長が後ろで何か言っていたが、居酒屋の階段を駆け下りて、下駄箱から靴を取り出し、僕はJRの駅まで走りに走った。スーツの下が汗で気持ち悪くなって、呼吸が続かない所まで来てから、改札近くの壁に寄りかかって、手の中のポストカードを見つめた。
『仕事おつかれ!頑張って』
少女の字で書いてあった。
改札で男がつっかえて、ピンポーンと警告音が鳴った。でも駅員は気づいていない。男は閉まったかよわいビニールの扉を手で押しのけて、構内の階段を上っていった。
僕は少し泣きそうになった。その男のくたびれたスーツの背中を見送りながら、自分が本当に疲れていることに初めて気がついたのだった。
『期限が切れるまではきっと大丈夫』
ポストカードの端っこの方に、小さく書いてある。僕は息と感情を整えながら、どういう意味か考えてみた。絵をもう一度よく見てみると、消費期限には2006/07/01とあった。
僕は携帯電話を開いて、日付を確認した。やはり、今日だ。時刻は二十二時二十五分。
期限が切れる前までに、メールをしろということなのだろうか?とりあえず、僕は落ち着かなければならない。紙ナプキンに書いてもらったメールアドレスは、自宅の冷蔵庫に貼り付けてある。間に合うか間に合わないか分からないが、とりあえず電車には乗る必要がある。山手線に揺られながら、もし今日の零時を回ってしまって消費期限を過ぎたならば、どうなるのだろう?とそれだけを考えていた。メールが届かなくなるわけでもないだろうし(少女ならやりかねないが)、こんな風に翻弄されるのははっきりいって迷惑だった。
とか何とか考えつつ、結局小走りで自宅マンションにたどり着くと、二十三時半だった。
僕は着替えて、洗面台で顔を洗い、走ったせいで酔いの回った体をソファに横たえた。
二十三時四十五分まで秒針の進む音を聞きつつ、携帯を握りしめていた。僕は意を決して冷蔵庫の前に立つと、マグネットから紙ナプキンを取り、急須に茶葉を入れ、ポットからお湯を出し、テーブルに腰かけた。
二十三時五十五分に湯のみに茶を入れ、携帯にphilip‐morrisを打ち込み、一口茶を飲み込んでから、『待った?』と本文を書いて、もう一度湯のみに口をつけた。
二十三時五十八分。送信ボタンを押してしまうと、飲み込んだ渋みが胃に到達するよりも早く、「送信されました」とあっけない文字が並んだ。そして零時ちょうど、僕は煙草に火をつけて、煙を吸って吐き出した。一日が終わり、また始まった時間だった。携帯のバイブ音が小さなダイニングキッチンに鳴り響いた。
携帯の受信ボックスを開くと、名前の欄にはphilip‐morris@xxxxx.co.jpとだけあった。その瞬間、少女はphilip‐morrisとなり、僕はmanhattan‐indianとなった。
そして少女からのメールが届き、僕らは繋がった。
『遅。090-6695-XXXX』
それから僕らは、たまのメールと電話をするようになった。会うことはほとんどなかったし、会ったときも仕事後の二、三時間を、カフェやファミレスで潰すだけだった。(もちろん、まれにラブホという選択肢もなくはなかった)大体は終電に間に合わせて、改札でお別れを言うだけだったし、もし乗り遅れても、僕が車で送り返して、またそれぞれの生活に帰っていくのだった。
そういったphilipとの付き合い方に特別不満はなかったけれど、お互いの気持ちを推し量れなかったり(特にphilipの愛情表現はおそろしく不器用だった)、不安と焦燥はいつだって、僕の心に悶々と広がるようになった。
唯一、それを解消するのは、彼女がたまに地方から送りつけてくる、パインアップルのポストカードだった。どこかへ消えるたびに、彼女は消費期限付きのポストカードに言いたいことだけを書いて送りつけてくる。
そこには、心が生温くなるような「好き」なんて言葉はいっさい書いてこなかったけれど、屋根の上でずっと動かない水鳥の話や、昔の友人が六年も付き合って結局は別れた話、さらには、川の自然環境を元通りにするために、周辺の住民が家を捨てて立ち退いた話なんてそんなものまであった。
だからこそ、ある一週間に二冊の本を読み終えた時、僕は二種類の夢を見たのだと思う。
2021年12月10日(A)
「あたし達はもうきっと、お互いを必要とはしないんだよ」
仕事中に届いていた彼女からのラインメッセージが、容赦なく心に突き刺さった。その後も、僕は何も応えられないままなのに、『既読』という冷静な二言だけが勝手にスタンプされ、彼女からのメッセージは立て続けに届き続けた。その度に、まるで錆びついた缶切りで胸の周りを切り抜かれる心地だった。
僕は明るいスマートフォンの画面に積み重なっていく吹き出しを眺めながら、何だか面倒くさくなってしまった。僕らはいつの間にか、もうphilip‐morrisでも、manhattan‐indianでもなくなってしまったのだ。
「課長、お先に失礼しまーす」
「おう、良い週末を」
部下を見送った後、しばらく誰もいなくなったオフィスをぐるりと見回して、「そういえば、自分に必要なものは何だったかな?」と呟いた。もちろん返事はなかった。
家に帰ると、固くなったスパゲッティの麺が、ガスコンロに巻きついて黒くなっていた。あれは何週間前の出来事だっただろう。ゆですぎた彼女に、辛らつな言葉を投げかけたのを覚えている。
夕闇が忍び寄って、ボロアパートのキッチンで向き合う僕ら二人を、一口で飲み込んでしまいそうだった。油で薄汚れた、青白いタイル張りの壁。洗われずに積み上げられているアルミシンクの食器群。すべてが僕らの積み重ねてきた思い出みたいに、脈絡もないまま、そこらにたたずんでいる。
冷蔵庫に貼り付けられたパイナップルのポストカードにも、影はゆっくりと触手を伸ばしてゆく。彼女はそれを助けようともせず、指を差して続ける。
「それに輪っかみたいなものなんだよ。いつもどうどう巡り。穴を埋めようとしたって、いつかまた空いてしまう。そんなの、もう無駄だと思わない?」
二人の生活という名前の缶詰に、詰められる前を思い返すことが出来なかった。今さら中身を開けてみれば、結局こんなものなのだ。僕の心臓だって、今輪切りにされれば、ぽっかりと開いた穴があるに違いない。それでも僕は、その穴から彼女を覗き込んで、これ以上穴を広げない方法を考えようとする。
「何か言ってよ」
また何も、浮かばない。
もっともっと昔、まだ一つの果実だった頃の二人は一体どんなだっただろう。今よりもっと交わす言葉は少なくて、でもそれでも、お互いを気遣い、理解し合っていたように思う。時間の波は当たり前のように寄せては返して、記憶の砂をどんどん砕き、小さくしていく。そうして、いつの間に消し去ってしまう。
「何も言わないなら……」
「今日はお前の誕生日だよ」
泣き濡れたせいで、いつもよりさらに柔らかくなった彼女は顔を歪めて僕にしがみついた。僕は溶解していく彼女を、少しでも抱きしめるようにと指と爪をたてる。夜に早く食われてしまえばいいのに。もう何も変わらないのならば、この先の二人の時間も過去の感情も、何もかも必要ないじゃないか。この小さなキッチンごと噛み砕かれて、二人してバラバラになってしまえればいい。
真っ暗になったキッチンの中で、僕が最後まで抱きしめていたのは、まだ上ったばかりの月のように真っ赤な、泣き腫らした瞳だけだった。
2021年12月10日(B)
その夜は嵐だった。
休日だったけれど、彼女は仕事だった。そのせいで僕は夕食当番だったけれど、930ヘクトパスカル位の大雨と風が、外の世界では吹き荒れていたので、僕はスーパーに行くのも億劫になっていて、ソファの上だけを上ったり下りたりしていた。
八時過ぎになって、そろそろ帰ってくるかもしれない危機感に襲われ、キッチンのストッカーをあさってみた。出てきたのはお茶漬けの素とか、レトルトのクリームスパゲッティとかそんなものばかりだった。
米と麺がないのに、一体どうしろというのか。
いちばん奥の方まで手を突っ込むと、缶詰の感触があった。丸くて頑丈なスチールの感触。僕はすぐに食べられる物を想像して、嬉々として引きずり出した。
それはパインアップルだった。
フルーツなんて、と期待はずれで少しがっかりしたが、食べられなくはないから候補にいれようと消費期限を見た。2021/12/10だった。
そこで全てを思い出した。
僕は急いでキッチンから飛び出して、僕の部屋のいたる所を探し回った。捨ててはいないから、どこかにあるはずだった。
散々引っ掻き回して、めどがついたのは机の二段目の引き出しだった。見てみると重みで底板が外れていて、裏側に落ちているのに気がついた。
大量のパインアップルのポストカードが、ピラミッドの底で眠っていた王達のように、少しずつ発掘されていった。僕は一枚一枚のほこりを払って、消費期限を確認した。
2008……1993……1983……2021……2021/12/10……あった!
『そういえばこの消費期限は、あたしの誕生日じゃないか!』
そのポストカードにはそんな風に書かれていた。これを書いたとき、彼女はどこへ旅に出ていたのだろう。それはもう思い出せなかったけれど、今日は帰ってくるのだろうか。
今日が自分の誕生日ってことくらい、覚えているだろうか。
テーブルクロスを広げて、真ん中にパインアップルの缶詰を置く。その下にポストカードを挟んで、横にろうそくを立ててみる。零時前に彼女がびしょ濡れになって帰ってきた。
「ひどい雨だよ」
「雨に濡れるのが好きだって言ってたじゃない。傘持ってるのにさしてないみたいだし」
「これだけひどいと傘なんてあってもなくても同じだし」
リビングに連れて行くと、ろうそくの炎が僕らの影を揺らした。彼女はすぐに気がついて、缶詰とポストカードを見比べた。
「誕生日にパインアップルだけかあ」
「おめでとう」僕と彼女は抱きしめあうと唇を交わした。嵐の夜を隠すカーテンの緞帳に揺れていた影は、一つになって揺れ続けた。
「開けていい?」
「もちろん。……ねえ、『恋する惑星』で金城武が買い占めた缶詰、何だっけ?」
「え、知らない」
彼女は僕に言わなければならない何か大切な言葉を、砂の中や、木の幹の中や、机の中や、マンホールの中に向かって埋めてしまう。
僕はいつかそれを掘り出しに行かないといけないのだ。何としてでも。
2008年8月15日
真夏の砂丘を、一歩一歩よじ登る。
麦わら帽子は炒られたポップコーンみたいに熱くなっている。砂は僕の足にからみついて、ボロボロになったジーンズと、スニーカーの隙間にまで入り込んでくる。
海風が吹くたびに、砂は形を変えて僕の体を飲み込もうとする。僕はそれに抗って、腕を振り回したり、足をばたつかせたりした。
体中の水分が、汗となって額からあふれ出た。肌はみるみる赤くなって、そこに砂が叩きつけるたびに、鞭でうたれたような痛みが走った。
手がかりは、届いたポストカードだけだ。消印からだいたいの場所の見当をつけて、あとは手探りになる。ポストカードは僕の汗を吸って、端の方からよれよれになってきている。それを搾って飲んで、もう一度水分になってくれはしないだろうか。
僕はその場に倒れこんだ。太陽のせいでティーシャツの中の背中が燃えている。裾から潮風と砂がくぐり抜けていく。いつかのバクが、砂の中からのそりと姿を現して、僕の襟首をくわえ込み、砂の底まで連れて行こうとする。
タールみたいに黒く重く、ねっとりとまとわりつく闇の中で、僕はphilipを探す。たとえ姿が見えなくても、手が触れ合えばphilipだと分かる自信がある。それは根拠もなく、実在もしない不確かな感情だけれど、僕は(僕らは)手探りでその輪郭を確かめあう。
眠る時にみる夢が、そういうものであればいいのに。違う場所にいる二人が、違うベッドの中で、違う音(時計の音、外を走る車の音)をたどりながら、少しずつ同じ夢のカタチを確かめられるならばいいのに。
眠りの闇は僕を身動きとれなくしてしまうけれど、philipの柔らかい体のような、生暖かい安らぎを感じられれば、何の迷いもなく僕は深い息を吐き出してこう言うと思う。
「おやす……」
その時、僕のポケットで携帯がバイブ音を響かせた。
僕ははっと目が覚めると、自分が砂の中に半分以上埋もれているのに気がついた。バイブが震える毎に、少しずつ僕を飲み込みかけていた砂丘は崩れていく。
僕は飛び起きて、砂漠をぐるりと見回しながら電話に出た。
「もしもし」
「元気?」
「……元気だよ」
「ならよかった。今どこにいるの?」
「鳥取」
「そんな所で何やってるの」
philipが笑うと僕は少し腹が立った。
「なあ、やっぱり、君が好きかもしれない」
砂嵐が僕らの会話の中にまで吹き荒れるように、携帯の電波は悪くなって、philipの声は遠くなっていった。
「あたし……っていても……何も言え……」
僕は携帯を投げ捨て、服を破り捨て、両方の腕を使って足元の砂の山を掘り出した。汗のせいで、体にはどんどん砂が貼り付いて行った。何の修行だ、と僕は思った。
探していたパインナアップルの缶詰が、砂の中に埋まっていた。僕はそれを堀り出して、ポストカードの消費期限と同じかどうかを確かめる。
……そうだ、これだ。
僕はリュックから缶切りを取り出し、中身を空けて、一口で食べてしまう。甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、僕は涙目になりながら、青い空と白い雲の真下にいるちっぽけな自分を噛みしめ、そっと呟くのだった。
「なまぬるい」