オアシスはどこにいった?
くろいくろい夜の空に、しろいしろい雲と星が浮かんでいる。
天上の闇は巨大な切り絵みたいにくりぬかれて、その巨大な切り絵は風に乗ってゆっくりと南の方へ流されていく。
いくつかの雲の上には、幹にリボンを結ばれた背の高い木が生えていて、空からこぼれる様々なものを受け入れるように枝葉を伸ばしている。ソーダ水が気泡をあげるように、風に舞った葉っぱの群れはどこかへ消えていった。
その近くを、燃えるように赤い鳥が一羽、ぐるぐると旋回していた。
僕は世界の果てにある砂漠のど真ん中で、それを見上げながら水とうの水を一口飲みこんだ。そして僕の足元では、一匹のフンコロガシが糞を転がしていた。
深い息を吐きだすと、世界中で僕だけが物音をたてたような静けさだった。水とうをゆすってたてた音は、心地よく響きわたった。
僕は皮の固くなった足を放りだし、ボロボロになった外套を背にして仰向けに倒れた。目をつむってよく耳をすますと、遠くで海の音がした。
久しぶりの海の音を聞くと、僕はいったいどこまで歩いてきたのだろうと思った。そしてここまでくるのに一体どれだけのものを失って、どれだけのものを得てきたのだろうと思った。
けれど、結局何も思い出せなかった。過去のものを記憶からひっぱりだしてくるには、比較になる現在の何かが必要だった。
例えば、部屋のカタチを思い出してみるとする。あの頃、テーブルは丸ではなく四角だったとか、ベッドの位置は逆側の壁際だったとか。ステレオはシルバーではなくブラックで、一度は時代を終えたはずのR&Rが鳴りっ放しだったとか。床のカーペットはまだ無くて、フローリングだったから足が冷えて、とすると確か季節は秋か冬だったとか。
不思議なことに、そういうふうな考え方でしか、僕はもう何も思い出せなくなっていたのだ。
だからこそ今僕は、海のさざめく波音を聞いて、いつかどこかで聞いたはずの同じ海の音色を、記憶の片隅から引きずり出してこなければならなかった。
濡れたまま放っておいた髪のように冷たく冴えた砂漠の砂を握って、年月の風によって砕かれた僕の記憶を拾い集めていった。
手のひらからこぼれ落ちていくそれらは、もともと毛深い方ではなかった僕の長く伸びたひげと増えたしわにからまって、面倒なことになった。
いや待てよ。若い時の僕はこうではなかった。古い友人が昔、僕に言ったことがある。
「例えば俺らは、長く激しい流れの川に橋をかけようとしている」
「うん」
「橋のかけかたっていうのは、まあ人それぞれだから色々あるだろ?」
「うん」
「お前の場合は、少しずつ少しずつ作っていくんだ。それこそ壊れないか叩きながらな」
「そうだね。しかもあえて岸まで戻って、もう一度渡ってみたりする」
「そう。そうだ」
「お前は違うね」
「俺はとりあえず作れるとこまで作る。後先も考えずに」
「そして川に落ちたりするな、絶対」
「ああ、間違いなく落ちるね。落ちて流されて、結局また作るために戻ってきたりする」
「でもきっとどちらも作っている橋の進み具合は変わらないわけだ」
「まあ、橋なんか作らずに渡るやつもいるんだろうな」
「対岸に何があるかも分からないのに?」
「もちろん流れに飲みこまれて帰ってこない奴だっているだろう」
「それも幸せなことだよね」
「そうか?」
「橋を作らなくても、流れの先に違う何かがあるかもしれないじゃないか」
「そんなのはでも、誰でも得られるものじゃないか。俺は嫌だね」
「うん。僕も嫌だ」
「職場の先輩にすごい人がいたよ」
「どんな?」
「彼は先の地形を知るために衛星を打ち上げるんだ。丹念に調べあげて、もう全て分かっているのに、一応、橋を作ってみて渡るっていうタイプだった」
「すごいね」
「まあ、結局は渡らないと分からないってことだ」
「渡った先にまた川があったりするんだろうね」
「あったりするだろう」
そして僕はそういった橋の作り方を、あえて変えようと努めてきた。だって人生は驚くほど速度を上げて、僕を追いかけてきたからだった。
で、僕は今こんな場所にいる。
世界の果てまできたものの、ちょっと途方に暮れて、また記憶を辿っている。自分が積み上げてきたものを再確認しないと不安になってくる。
どちらが良かったのか?そういうことじゃない。そんなことは考えても無駄なことだ。なるようになった現在を、説明するだけの過去が欲しいだけだ。僕の根本はやはりもう揺るがない。年老いた木の根っこは、もう引きはがせない。
行商人がらくだの群れを連れて、向こうの砂丘を歩いていた。地平線まで続くような、長い長いらくだの列だった。
僕は立ち上がって砂を払うと、外套のフードを被ってらくだの列へ走り寄って行った。
目の先に並んでいるように見えたのに、気が遠くなるような距離があった。どれだけ走っても、駒のように並んだ影は近づいては来なかった。
その時、空の彼方からたくさんの虫の羽音が迫ってきた。いなごの群れかなにかが、次の食糧地を求めて旅をしているのだと僕は思った。
フードを少しあげて夜空をあおぐと、横向きに倒れこんでいる三日月の上を、巨大な母艦を先頭にして、軍艦が隊列を組んでこちらに向かって飛行していた。
らくだの列も、足を止めて身震いしているようだった。中にはひざを折りたたんで、その場に座ってしまったのもいた。
軍艦は灰色の雲を引いて、僕のすぐ頭上を通り抜けていった。まっしろく突き抜けていた雲も木も全てなぎ倒して、意味も分からず苦悩する赤ちゃんの鳴き声のような音を響かせて、砂嵐を巻き上げていった。僕はただ走りながら、耳をじっと押さえた。
僕がやっとらくだにたどり着き、固くてごわごわした毛にしがみついた時にもまだ艦隊は僕の上で叫び散らしていた。長いまつげを何度もしばたかせるらくだの瞳を見ながら、僕は彼らがはやく通り過ぎることだけを祈っていた。
お腹に卵を抱えたゴキブリのように、黒い爆弾が艦隊の腹に住みついていた。彼らはどこにあれを産み落とすのだろうと思った。そこから、どんな悪魔が生まれるのだろうと僕は思った。
彼らがいなくなると、砂丘はさっきまでとはまるで形を変えたものになっていた。雲と木が墜落して砂漠に突き刺さり、一部に森と水の不恰好なオアシスを作っていた。静けさは当たり前のように戻っていた。
らくだが立ち上がったのに引っ張られる形で、僕も立ち上がった。
行商人が一匹一匹のらくだの調子を確認していた。僕の方にも来たので、頭を下げた。
行商人は年老いた男で、片目しかなかった。もう片方のぎょろりとした目で、僕の顔を見るなり言うのだった。
「おや、いつのまにか変なもんが付いちまってるね」
「すみません」
「いつもは蝿くらいのもんだからね。まあ、それはこいつらの自由さ」
「全部、確認するんですか?」
僕は後ろに並んでいるらくだを目が細くなるまで数えた。
「一日はかかるかね。だが俺の全財産を抱えてるのはこいつらだからな」
食材やカメラや絵やほとんどガラクタにしか見えないようなものまで、らくだは文句も言わずコブとコブの間に背負っていた。
「手伝いますよ」
「そいつはありがたいね」
僕は行商人にらくだのなだめ方と、どうしても立たなくなったらくだの立たせ方を教わり、カセットテープとラジカセを手渡された。どうしても立てなくなったらくだには、耳を折り返して、その耳にビートルズのアクロス・ザ・ユニバースを聞かせるのだった。「後は気持ちの問題だ」と言い残した行商人と手分けして、らくだの様子を見て回った。
三分四十七秒のその曲を何頭ものらくだに聞かせていると、僕はいつの間にか一緒に口ずさんでいた。
いつの間にか空の向こうは真っ赤に燃え上がり、ついで爆発音が鳴り響いた。今度はたくさんの大人と子どもが泣き叫んでいるような気がした。
それは一昼夜続き、太陽が昇って沈んでしまう間も、僕はらくだに音楽を聞かせ続けた。
繰り返されるまき戻しと再生のせいで、テープはところどころ伸びてしまって、音程も音も飛んでいた。僕はしまいには代わりに歌ったりした。
「戦争だよ」
オアシスで一息していたところで、行商人が言った。そして、ロールパンとバターを分けてもらい、空腹を少しでも満たした。
「争いの理由は水か何かかな。あいつらは自分が叩き落として行った雲が、こんな風に水をつくることも知らないんだよ」
片目の行商人は笑ってパンのかすを払い落とすと、透き通ったオアシスの水に口づけて、ごくごく飲んだ。明け方の空はよく晴れていて、木のかげから見える赤紫に雲はなかった。
「教えてきますよ」
「無駄だと思うがね。君は自分のやるべきことをやるべきだ」
「じゃあ、暇があったら」
「そうだ。そんなことは手が空いた時にでもやればいい。それが君の本当にやるべきことだったら、きっと本当に動かなければいけない時がくるはずだからな」
「らくだに歌を聞かせるみたいに?」
行商人はまた笑うと、背負っていた古いライフル銃と弾丸の入ったバッグを僕に投げてよこした。
「あの国を渡るんだろう?死なないことを祈ってる」
僕はよく使いこまれたライフル銃を握ると、バッグから弾丸を取り出して装填した。狙いを定めて、空に向かって放った。木陰で休んでいた赤い鳥たちが、いっせいに飛び立っていった。
「もう先に進みな。助かったよ。一頭、連れて行くといい」
僕は行商人に食糧とらくだを分けてもらい、ラジカセも譲ってもらった。行商人と握手をかわすと、とても固い手のひらをしていた。
らくだに揺られる間、ジョン・レノンは歌い続けた。
ナッシング・ゴナ・チェンジ・マイ・ワールド。
ナッシング・ゴナ・チェンジ・マイ・ワールド。
まだ先へ進むには、避けられない争いがあるのだ。他人から何かを奪うための戦いじゃない。自分自身を守るために、自分自身を倒す戦いだ。結局、どこかに悪魔がいなければ、戦うものも生まれないのだ。その戦いにすら、まだ僕は勝ってはいないのだ。
黒い煙があがっている地平線のむこうに、らくだはできるだけゆっくりと歩いていく。
僕も最初はやきもきしていたけれど、そういう歩き方の方が、ずっと長く歩けることを知った。街が近づくと、さまざまなものが焼ける臭いと、血の匂いがした。そして砂嵐が夕方過ぎの決まった時間に吹くようになった。
その間、ぼくは荷物の中から折りたたみ式のシェルターを取り出し、組み立て、らくだと一緒にその中で眠るのだった。
切り絵の空の向こう側で、誰かが小さな僕のことをのぞき見ている。無数の星ののぞき穴からひっそりと。
そいつは僕を見て、笑っているかもしれない。それでも、僕には関係のないことだった。