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すべりだいと竜巻

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「星が見える」

 すべり台のてっぺんで寝そべった彼女が夜空を見上げて言った。

 僕が邪魔にならないように顔を遠ざけると、彼女はそのまますべり台をすべっていったが、途中でぴたりと止まってしまった。

 僕が茶っこい彼女の短い髪を見おろしていると、すべり台の上に吹くぬるい夏の夜風だけが横面を撫でていった。ファミレスの白い光と冷たすぎる空調から逃げて来た僕らには、心地よい優しさだった。

「何ですべれんようになるんだろ」

 そう言いながら、すべり台の真ん中で彼女は両足を交互に振り上げると、サンダルを脱ぎ捨ててしまった。

 慌てて飛び出したファミレスから、五十メートルほど走ったところですでに踏切の音が鳴り響くのが聞こえた。

「あ、いけん!」

 並走していた彼女が叫んで、急に見えなくなった。振り返るとしゃがみこんでいた。サンダルの鼻緒が壊れたみたいだった。

 仕事帰りに少しご飯を食べるだけのつもりが、思いの外に話が広がってしまった。腕時計を見たが、間に合いそうになかった。

 下りてしまった遮断器の前で二人して息を切らせながら、通り過ぎる最終列車を最後まで見送った。踏切が黙り込んで、遠くの海の音が聞こえるほどの静けさが急にやってくると、彼女は僕を見上げて笑った。

「ないわあ」

 目的もなくただ深夜の住宅地を二人でうろついた。

「知らん人の家から見える、部屋の灯りが好き」

 そんなことを言って、彼女はアパートだろうが一軒家だろうがおかまいなしに塀のすきまからのぞき見るのだ。零時を過ぎていも、知らない人たちの生活からこぼれる灯りはちらほらあって、僕は内心ひやひやしながら、ただその姿を見つめるしかなかった。

 心なしか柔らかく感じるアスファルトから、昼間の熱はゆっくりと蒸発していて、電柱や街路樹がひしゃげて見えるほど住宅地を蒸していた。

 汗ばんだTシャツやらジーンズやらまとわりついてるのに、彼女はオーガニックな綿色のスカートをひらひらさせている。

 手をとると恥ずかしそうに一つだけ笑って、そのまま握っていてくれた。

 繰り返して来た僕の夜の中で、最も着陸地点が見えない夜だった。

 そして気がつくと、この公園にたどり着いていたのだった。

 彼女の小さな二足の黄色いサンダルは、奇妙な位に揃って、砂場の上に軟着陸していた。

「らくだみたい」

 上半身を起こした彼女は、僕を振り返らずに、サンダルとは違う方を指差して言った。

 公園を囲んで並ぶ植木を公園のライトが照らして、列をなす巨大ならくだの群れのシルエットのようだった。

 僕もスニーカーを中空に蹴り飛ばすと、彼女を下についと押しやって、すべり台にたてに並んで寝転がった。

 つまさきに触れる彼女の肩のぬくもりと、手のひらの冷ややかなステンレスの感触。風はまだ吹いているのに、らくだ達は微動だしていなかった。

「何ですべれなくなるんだろうね」

 彼女は僕を振り返ってもう一度笑った。そして、彼女がこの街に来ることはもうなかった。

 朝日が水平線から世界の様子をうかがうように顔を覗かせていた。空が僕を中心にぐるりと回る度に、海の上を白く光る腕が少しずつ伸びていった。

 いや、回っているのは僕の方だった。

 浜辺を歩いていた僕は、気が付けば波打ち際の水しぶきと砂と一緒になって、もやのかかった早朝の空気をちぎりながら、まだ闇の残る紺青の上空へと吹き飛ばされていたのだった。

 灰色の砂浜の向こうには、僕の暮らしていた日常が何事もなかったかのように佇んでいる。

 空から見下ろしていると、何だか僕の知らない誰かが、ミニチュアでも並べるように整然と僕の記憶をまとめておいてくれたように感じた。

 あの夏の夜の公園が見える。

 まだ眠ったままの電車の線路が見える。

 満ち潮は砂浜の桟橋を覆い隠したまま波打っている。

 数羽の鳶が島を旋回しながら、僕の行く末を見つめている。

 でも、今僕から見える風景に、彼女はもういない。

『何ですべれなくなるんだろうね』

 彼女のあの言葉は、思わず口づけした僕を諭したものだったのだろうか?それとも、彼女自身もサンダルのようには着陸できずにいたのだろうか?

 ファミレスで興奮して地元の方言で喋り通していた時、踏切で息を切らした時、すべり台で素足を放り出した時、彼女は嘘みたいにただただ純真な笑顔だったことを思い出した。自分が大切だと思い込んでいたことほどいつの間にか忘れて消え去っていくのに、何だってこんなどうでもいいようなことを思い知らされるのだろう。

 僕は本物の巨大な竜巻に飲み込まれて、深くて広い空に今にも放り出されそうなのに。

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